第100回「魂の居場所」

 こんにちは! 昨日はまた異常気象極まれりでしたねー。私の故郷三鷹市には雹が積もりました。思わず心配になって父母兄弟に連絡しちゃいました。みんな元気でなによりでした。。。今また外で雷なってますが。
みなさまも本当に落雷や雹にはお気をつけて! 無理せず屋内に避難しましょう!
 さて、いよいよこの「いやされーの店長ブログ」も100回を迎えましたー(ぱちぱち)!! 実は昨日、記念すべき100回目を書こう書こうとしていたのですが、なんだか不具合でログインできず、今日とあいなりました。昨日は「お店」も一時不具合で止まっちゃったんですよね……。でも、まぁこういう日もありますよ!
 では改めまして、100回目の本題を。
 いやされーが目指すのは、「人々の癒し」です。この目標は、実はかなり前から私の中にありまして、「代表あいさつ」にも書きました通り、良くも悪くもたぶんそういう気質なんですね、私。
 しかし、具体的に言葉になったのは大学時代でした。私は都留文科大学文学部国文学科を卒業しておりまして、専門は近現代文学でした。私が卒論で選択したのは遠藤周作。彼のテーマは一貫して「弱者の魂の救済と復権」だったのです。これは私にとって、衝撃的でした。当時、いじめられっこから一転してボクシングで己を鍛え、「力」ばかりを目指し、強者が正義のような、とある漫画の維新志士みたいな人生観を持ち始めていました。若気の至りですね。きゃーはずかしい。
 しかし、ある日私は遠藤周作の『沈黙』という作品に出会います。ストーリーは割愛しますが、そこに描かれていたのは、弱きもの、その弱さゆえに犯す過ちと、その弱さに見合った、許しだったのです。
 弱くてもいいのか……という私にとっては人生の根底をぐらぐらと揺らす「許し」でした。その時点までの人生で味わってきた苦痛は、自分が弱かったから悪いのだ、というケリのつけ方をしていたんですね。いやー目がくらんでたな……。今改めて文章にしてみると、あやうく人生の道を踏み外すとこでしたね(苦笑)。
 遠藤周作作品から、私には新たなテーマが生まれました。
「普通に生きられて、普通に幸せでいられる人たちはそれでいい。しかし、運や神や人に見放され、日々生きることにすら苦しんでいる彼らの魂は一体どこに行けばいいのだ」
 ということです。
 結論から言うと、「神」や「人」に救えないものはないと思っています。
どちらかというと、これは実は救われる側の問題なんですね。「神」や「人」は常に救ってくれるわけではありません。すると一度「神」や「人」に救いを求めて、かえって大きく傷を負ってしまった人が、「神」や「人」に絶望するのを、誰が責められるでしょうか。それでも絶望せずに救いを求めれば、いつかは救いを求めたものが救ってくれるものだと、私は考えていますが……おおよその人間には、何度もあきらめずに救いを求める強さなど、持ち合わせてはいません。
 そういう人たちを救う。それはおこがましいと思ってます。「消えたい人たち」の際にも書きましたが、傷は様々な形と深さと場所にあり、ひとりひとりを完全に救うことなど、到底私一人で出来るものではありません。
 しかし、「癒す」ことならできるのではないか、とまぁ考えてしまった次第です。だってしんどいじゃないですか。
傷を負い、日々生きるのもつらいなんて。
 ネットショップで癒しの雑貨や食品を提供するだけでは、それだけで当然「癒す」にはならないと思います。
 でも、私にもあなたにも、まだまだ先があります。
 宿り木のようにやすらげる様々な人々の魂の居場所を目指して、いやされーは成長していこうと思います。
 


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